ボストンで麻婆豆腐ならHot Easten
山椒のきいた辛い麻婆豆腐が食べたい!!
これはふとした時に誰しもが思うこと!
そしてそれはアメリカボストンで生活していても同じ!
ってなわけで、ボストンですごく美味しかった麻婆豆腐を紹介します!
四川料理店"HOT EASTERN"
ボストンの中心部に位置する2つの駅、Park Street駅とDowntown Crossing駅から徒歩で約10分。
この一帯はチャイナタウンと呼ばれ、多くのチャイニーズレストランが所狭しと並んでおります。周り見渡したら漢字ばっかり。笑
そんな中今回紹介するのは四川料理店、Hot Easten!
辛いと言えば四川!という、それだけの理由で行ってみました!笑
ちなみに英語で四川は"Szechun"(セチャン)と発音するそうです。
お店は扉をあけて階段を降りた地下にあります。
エレベーターはないようです。車椅子ユーザーやベビーカーで来る人へのアクセシビリティはイマイチ。
店内はこんな感じ!
早速席に着き、最初から麻婆豆腐を食べる目的で来たのでメニューも見ずに
Do you have mabodoufu?
と質問。
ちなみに麻婆豆腐は英語でそのまま
マーボードーフーと発音します。笑。
Yes, of course! もちろんあるよ!と店員さん。
店員さんはほとんどが中国人、でも英語もバリバリ話してます。
シェフは四川出身なんだそうです。
お客さんも比較的中国語を話している人が多かったです!
I'll take it. And small rice and glass of water please.じゃあそれください。あと半ライスとお水もください!
とその他も注文。ちなみにお水は無料です。
10分ほどで注文の品が到着。
一口食べたら、舌がしびれっぱなし!本当に山椒がよくきいています!食べてる間ずっと舌ビリビリです。ビリビリすぎて、途中味わかんなくなることも笑。
最初は山椒のインパクトが強いですが、食べ進めると麻婆の濃厚さも感じられます!大きめに切ったネギが入っているのもまた良かった!ボストンでネギを食べたのが久しぶりだったからか、麻婆ねぎでもいいと思うくらい笑
麻婆豆腐に半ライスをつけて合計14ドル!
ボストンはっ本当に物価が高い。。
最終的には’チップも含めて16ドル’払いました。
とにもかくにも美味しい麻婆豆腐でした!!これで麻婆豆腐食べたい欲はしばらく顔を出さないでしょう。笑
ボストンで山椒のきいた麻婆豆腐が食べたくなったら、是非一度お試しあれ!
ボストンの信号は見づらい??? 障害者のアメリカ長期滞在ログ Vol.3 ~ボストンのアクセシビリティチェック <信号編>~
みなさんは障害者が海外に行く際、どのような不安を抱くかご存知でしょうか?ただでさえ海外に行くのには「言語」という壁があり、すごい決意やエネルギーがいるのに、障害者は他にも不安の種として頭によぎるものがあります。
それは、「街がバリアフリーか??」ということです!!
車椅子に乗っている人を例に出して考えてみましょう。
・もし電車の駅にエレベーターがなかったら?
・歩道と車道の間の段差が緩やかな場所がなかったら?
・せっかくいった観光地にスロープやエレベーターがついてなかったら?
これらの中には渡航前のリサーチの段階でわかるものもあれば、実際に行ってみないとわからないものもあるでしょう。
そこで現在ボストンに滞在している視覚障害のある私が、ボストンの街のアクセシビリティについて良い面悪い面をありのままに書こうと思います!私は弱視で、実際のところ歩行にはあまり問題がありません。そこで「歩行が難しい人たちはこんなところを心配するんじゃないのかな?」ということを、自分で想像したり車椅子を使っている友達や視覚障害者の友達等に聞きながら本記事を作成していこうと思います。
本記事は第1弾ということで、実際に僕もボストンで苦労している「信号」について紹介していこうと思います。
ボストンに来てみたいなと思っている障害当事者、障害者のいる家族など、多くの人にとってお役に立てればと思っています!
渡っていいよマークがややこしい!!
ボストンの信号の最も厄介なところは、「渡っていいよマーク(日本でいう青)」なんです!
日本は青になったら渡っていい、黄色になったらもう少しで渡っちゃダメだよという意味ですよね。
しかしボストンは「渡っていいよ!」も赤なんです!!!渡っちゃダメも赤なのに!!!なんてこった!!!
どういうことかと言いますと、まず「渡っちゃダメ!」の赤から「渡っていいよ!」の青に変わります。青といっても白い近い薄い青です。
ボストンの青はこちら↓↓↓
ちなみに僕の友達で白内障のある友達は、この白っぽい色は日中は背景の空の白色の関係で見えづらいんだそうです。夜は周りが暗いのでコントラストがはっきりしていて見えやすいです。
青マークに変わってから約5秒後、まだ「渡っていいよ!」の状態にも関わらず、青は何処かへ行って赤が現れます!「赤」は点滅していて、その右に赤い数字が登場します!この数字は「残り何秒で渡っちゃ行けなくなるよ」という意味です。
渡っていいよの赤はこちら↓↓↓
まだ渡っていいのに赤って、、、なんで渡っちゃダメな時の色と一緒にしてしまったのでしょう。。本当に困る。本当に。。。点滅してるかとか、数字があるかなんて、視覚障害者にとっては見分けるの簡単じゃない人もたくさんいるんだぞー!
渡っちゃダメの赤はこちら↓↓↓
音もまた独特!!
ボストンの信号の多くには「音」がついています。日本の信号にもついてるのありますよね。青の時になって、赤の時には鳴ってないあれです。
ではボストンの信号の音はどんなかと言いますと、基本的にずっと音鳴っています。笑。つまり音がなっているか鳴っていないかでは渡っていいかどうかを判断できないということです。
信号についているこの機械から音が出ています。信号の色を変えるためのボタンもここについています。押すのに結構な力がいるので、手の動きに困難のある友人はオスの大変だったと話してくれました。
ではどんな音かと言いますと、まず「渡っちゃダメ!」のときは
プッ、プッ、プッ、プッ、プッ
ってな感じです。
では「渡っていいよ!」の時はどうなのか、上でも述べましたが、ボストンの「渡っていいよ!」には「青」と「点滅赤+点滅数字」があります。
「渡っちゃダメ」の赤から青に変わった約5秒間の音は、
ドドドドドドドド、ドドドドドドドド
こんな感じ。
青の後点滅の赤+点滅の数字の時の音は、
プッ、プッ、プッ、プッ、プッ、
「渡っちゃダメ!」の赤と全く同じ。。。
色も同じだと思ったら音も同じかよ!!!これはわかりづらいよほんと。。。
これだと、「渡っちゃダメ!」の赤の時から信号待ちして青になってから渡る時は音の変化で渡っていいことに気づくけど、すでに青が終わってて「渡っていいよ!」の点滅赤+点滅数字のときは渡っていいのか音じゃわかんないよね。。。
これだと音だけに頼っている視覚障害者は渡るの結構大変ですね。
周りが渡ってるから渡って大丈夫だ!はリスキーかも??
信号を見つけられなかった時、僕がよくやることは「周りの人の動きを伺う」ということです。
仮に自分が信号の色の変化に気づけなくても、周りにいる信号待ちの人が動き始めたらそれは、色が変わった証拠!つまり僕も道路渡って大丈夫!僕はこれの方法をよく日本で撮ってきました。
しかしボストンでこれはたまーに危ない。笑。
なぜなら、
信号無視する人めちゃくちゃ多い!!!笑
信号渡っている人についてったら、その人が信号無視してて、僕も引かれそうになるということを何度か経験しました。。あれ結構危ないんすよ。
信号無視している人はその人の、「車にひかれないタイミング」で渡ってるわけでしょ?
その人について行く時は、だいたい1、2テンポ遅れて歩き出す。つまり「絶対にひかれないタイミング」ではないということです。
だから「周りの人が渡り始めたから」といって、信号を確認せずに渡るのは避けた方が良いでしょう。
困ったら目が見えないことをアピールするべし!!
じゃあ信号が見つけられない時、周りの人についてく作戦も使えない時、そんな時はどうしたら良いのか??
答えはいたって簡単です!
助けを求めなさい!!!
これで万事解決です!
僕もたまに使いますが、「本当は頑張れば見えるかもしれないけど、頑張りたくないから人に聞く」というのは、個人的にすごく生きやすいと思います。
普段歩行では使わないはずの白杖を困った時だけ出しちゃったりもして。笑。僕にとっては苦情は、歩行の補助器具ではなく、視覚障害者であることをまわりに「見せつける」ためのものです。
白杖を持って、隣に立っている人に
Can I across the road?渡ってもいい?(正しい英語かは知りません。笑)
と尋ねれば、だいたいYesかNoで教えてくれます。
これで良いのです!信号が日本より分かりづらい?そんな時は日本にいる時よりさらに人を頼ってしまいましょう!!
まとめ
結論から言うと、僕はボストンの信号が正直嫌いです。笑。視覚障害者にとっては日本のものより苦戦を強いられるかもしれません。
だからといって不安になる必要はありません。困った時は周りの人に助けを求めれば良いのです。日本では僕は試したことがないので、比較はできませんが、ボストンの人たちは尋ねた時は教えてくれます!他人に頼る力、最初は勇気がいるかもしれません。でも慣れるとすんごく楽ですよ!!!
普段困った時は聞く癖がついたおかげで、インターン中質問ばかりしてたら、「自分でまず調べろ。」と注意を受けましたが。笑。
信号が見えるか不安、と言う障害者の方にとって本記事がお役に立ったら幸いです。ぜひぜひたかが「不便な信号」に怯えず、ボストンに遊びに来てくださいね!都合が合えば案内しますよ!
では、今回も蝶分をお読みいただき、ありがとうございました!
障害者のアメリカ長期滞在ログ ~障害者はどんなチャンスがある?~
皆さんは障害者が海外に長期滞在するための選択肢をどれだけご存知でしょうか?近年語学留学やワーキングホリデイなど、より多くの人が海外で長期滞在をする機会が増えて来ました。しかし障害者が海外に進出する数は圧倒的に少ないことが現実です。
僕は2018年4月からボストンのNPO法人でインターンシップを始めました。僕は1歳の頃から視覚障害があり、弱視です。
本記事では僕が現在参加している事業も含めて、二つの障害者対象の海外派遣プログラムをご紹介いたします!海外に行きたいと思っている障害者や障害のある子どものいる親御さんにとって、良い記事になればと思っています!
ダスキン障害者リーダー育成海外派遣事業
これは現在まさに僕が参加しているプログラムです!地域社会のリーダーとして貢献したいと願う障がいのある若者に海外で実地経験をしてもらうというものです。このプログラムには個人研修、スタディ・イン・アメリカ研修、グループ研修の3つがあります。(年度によって異なるかも。)今回は私が参加している個人研修についてのみ、詳しく説明いたします。
個人研修では、選抜された研修生が最長1年間自分のテーマに沿った研修国、研修機関で、最長1年間を得ながら研修を行うというものです!
一言でいうと、自分の好きなことを好きな場所で、好きなように!って感じですかね?笑。
非常に自由度の高いプログラムです。その代わり?というか、海外研修のためのすべての手続きを全て自分で行うことが求められます。研修機関探しやビザ申請、住居決定に至るまで、全部自分でやる必要があります。特に研修機関探しは、いきなり興味のある機関にメールしても返事が帰ってこないことが多いので、知り合いのツテをたどってなんとか見つけなきゃいけないこともあり、結構大変でした。笑
毎月一定額の生活費が支給され、その中から住宅費や食費、人によっては介助費など全てをまかなうことになります。選ぶ研修地域によって物価や家賃も異なるのに対し、支給される生活費は一定なので、そういうことも考慮して研修地域を選ぶことにもなります。
やりたいことが非常に明確な人、自分で計画を組み立て実行する行動力のある人にオススメのプログラムです!
TOMODACHI障がい当事者リーダー育成米国研修
TOMODACHI 障がい当事者リーダー育成米国研修 | TOMODACHI
マサチューセッツ州ボストンで行われる次世代を担うリーダーを育成する5ヶ月間の短期集中プログラムです!研修生は数多くの障害関連団体への訪問、それぞれの関心のあるテーマに沿った団体でのインターンシップ、英語研修、そして毎週行われるグループヴィジョンスーパーセミナープログラムに参加します。
研修ではコーディネーターがつき、障害の特性にあったホームステイ探しや介護サービス、現地での携帯電話や福祉タクシーといった、あらゆる面をサポートしてくれます。
このプログラムでは「リーダーシップ」や「障害」に非常にフォーカスしていて、過去に参加した多くの障害のある研修生が「人生の価値観が大きく変わった」と話していました!徹底的に「障害者としての自分とは?」、「障害コミュニティのリーダーとは?」ということを突き詰めるプログラムなので、得られる学びは非常に大きいと思います!
いかがでしょうか?この2つのプログラムはそれぞれ違う特性があり、もちろんどっちが自分にあっているかというのは人それぞれだと思います!ぜひ皆さんには障害があっても海外で亜mなベルチャンスがあるということを知っていただければと思います!長文をお読みいただき、ありがとうございました!
障害者のアメリカ長期滞在ログ Vol.1 ~海外生活何が楽しいの?~
みなさんは海外に留学したい、海外で働いてみたいと思ったことはありませんか?おそらく誰しもが一度は考えたことがあるのではと思います。語学留学やワーキングホリデーなど、今はいろんなチャンスがあって海外に長期滞在する人はどんどん増えてきています。
しかしながら「障害者」が海外で長期生活をするとなると、障害のない人と比べて心配や不安はさらに多いのではないでしょうか?ただでさえ行ったことのない場所、別な言語を話す場所ということで不安がいっぱいなのに、さらに障害のことを考えると、なかなか一歩を踏み出せない障害者は多いのではないでしょうか。
私は1歳の頃から視覚障害があり、弱視です。そんな私は2018年4月からアメリカボストンにて1年間のインターンシップ生活をスタートさせました。本記事では私が海外で生活していて何が楽しいのかについて書いていきます。障害がある人で海外に行ってみたいなと思っている方、障害のある子どものいる親御さんにとってお役に立てればと思っています。
私のお気に入り、ケングリッジ公立図書館です!
自分らしく自分のしたいようになれる!
私が最も実感している海外生活のいいところは、自分のしたいようにやりたいようにいられるということです。
例えば、私は通勤で駅に向かう途中、割と大きめな声で鼻歌歌ってます。笑。あ、日本にいたころはそんなこと絶対しませんよ!変な人だと思われるから!笑
しかしボストンではします。なぜなら自分より変な人たくさんいるから!笑。ヘッドフォンつけて大声で歌ってたり、よくわかんない何か叫んでたり、誰かと大声で電話してたりなどなど。笑。鼻歌なんて可愛いもんです。笑
あとは周囲の目を気にせず簡単に髪の毛を染められます。笑。日本だとだいたいみんな黒なので、ブロンドにしようものなら目立ってしょうがありませんね。笑。
でもこっちでは大丈夫!なぜならブロンドは多数派だからです1私もこっちきて勢いで染めちゃいましたブロンドに!笑。きっと10年後くらいにこんな時期もあったなぁ恥ずかしいなぁなんていうんだろうなぁ。
こんなふうに「自分らしく」いられるところはボストンにいて楽しいところだと思います!
周りの目が気にならない!
これは私が実感したことというよりはむしろ、友人がよく話してくれたことです。私の友達でボストンに半年間住んでいた車椅子ユーザーの人が何人かいますが、彼らがよく話してくれたことが、「周りの目が全然気にならない」ということでした。
私はそもそも他人が自分を見てるかどうかは障害の特性上わかりませんし、それ以上に私はぱっと見障害者ってわからないので(良くも悪くも)、周りの人は僕に「特別な注意」を向けません。
しかし車椅子に乗っている人は違います。見てすぐ「障害者」と周りから認識されます。彼らが日本で生活しているときは、例えば電車に乗っているときなど、ジロジロ見られたり、周りに気を使ったりなど、快くない思いをしたことがあったようです。
しかしボストンは日本とは全然違うんだとか!周りの人はは車椅子に乗ってても全然気にしないんだとか!前述したように、日本では「変わった人」と思われる人はこっちにはたくさんいるので、全然気にならないのかな?
あとは純粋に車椅子に乗っている人が「ごく稀な人」ではないからでもあるのでしょう。ボストンにいると本当に多くの車椅子ユーザーに出会います。道で会うのはもちろんですが、一回ナイトクラブで会ったときは本当びっくりしました!笑。
周りの目が気にならないっていうのはすごくいいことですよね!
いかがでしたか?この他にも海外にいるからこその楽しみはたくさんあります。ボストンだと、ハーバードやマサチューセッツ工科大といった、世界最高峰の大学に通っている人と友達になれるとか、英語が上達できるとか、たくさんパーティあるとか、ブロンド美女に会えるとか!笑
ぜひ障害者の将来の選択肢として、「海外」も考えてみてください。別な記事では今後、障害者の海外進出にはどんなリソースがあるのか、僕はどうやって海外でインターンをするチャンスを得たのかについて書いていきますね!
僕は障害者?健常者?それとも??
去年の12月以来の投稿です。3月までは渡米の準備、主にビザ関連の手続きでバタバタしていたり、4月からのボストンでの新生活が始まったことなど、具体的に更新をするといっておきながら実行しなかった言い訳を挙げることは可能ですが・・・笑まあ改めてこれから定期的に自分のペースで更新していけたらと思っています^ ^
さて、ここ最近強く感じることがあります。それは
「自分ってなんなんだ?僕のアイデンティティって?」
っということです。
どういうことかといいますと、以前の記事でも何度か話していますが、私には視覚障害が1歳の頃からあります。健常者に比べると視力が低いということ、そして視野に欠損があることによって見えづらさがあります。日本では障害者手帳も取得しており、まぎれもない障害者ということになっています。
しかしながら、これは誤解を招く言い方になってしまうのですが、障害者である僕にはできないこと、困ることがあまりにも少ない。別な言い方をすると、非常に多くのことが健常者のようにできてしまう、ということです。もちろんこれは私の視覚障害による困難を打ち消すほどの私の能力と努力の結果だというわけではありません。単に見え方の問題です。私は歩くことも、階段の上り下りも、ジョギングすることもできます。サッカーやバスケットボールだって、健常者のように完全に全てを見ることができるわけではありませんが、できないというわけではない。。。
視覚障害者のコミュニティにいるときによく感じることなのですが、みんな僕より視力や視野の症状が良くない。つまり僕よりもはるかに「見えづらさ」を持っています。他の視覚障害者に比べて僕は非常に多くのことを「健常者のように」できるんだと思います。
ちょっと前までは自分が障害者であることを自覚し、健常者にはない「障害者の視点」を僕はもっている、そこから見える社会構造の問題に立ちむかおうみたいな、すごく立派に聞こえるようなことを考えていました。今でももちろんそんなことができたらなと思っています。
その一方で少しこの気持ちが揺らいでいます。それはそんな大それたこと、俺には無理だとかそういう諦めの気持ちから来ているのではありません。それは、そもそも自分が障害者の視点とやらを持っているのか?と感じるようになったからです。
多くのことが健常者のようにできる障害者の俺に、他の障害者の気持ちは分かっているのか?障害者の抱える問題を理解しているのか?こんなに見えている俺は本当に障害者なんだろうか?
僕の周りには非常にアクティブな障害のある人がたくさんいます。彼らは障害者の立場から、社会をよりよくしていこうとそれぞれの分野で障害者の視点で発言しています。「周りの健常者は自分を見てかわいそうだというけど、不幸かどうかを決めるのはあなたではなく私だ。」、「健常者が基準で、障害者は劣っている存在というのは間違っている、障害とは人間の自然な特徴の一部なのである。」、「障害者の社会進出はまだまだ遅れている、障害による困難さを生み出すものは障害自体ではなく社会の構造そのものである。」などなど・・この他にも、自分の経験、視点から社会を変えていくために発言している障害当事者はたくさんいます。もちろん、これは素晴らしいことです。
彼らは皆、自分の過去の経験から社会の構造、障害者への偏見といった問題を理解し、それをどうにかしようとしています。でも僕はそれらの困難な場面に直面した経験があまりありません。障害を理由に差別を受けたり、同情されたり、排除されたりなんてことはこれまでありません。つまり僕は「温室育ち?」というわけです。笑
そもそも僕の周りには僕を障害者として見る人はほとんどいませんでした。いろんなことが他の人のようにできたこと、見た目では障害がわからないこと、僕自身自分の障害について意図してカミングアウトしてこなかったことなど、いろいろな理由がありますが。そういったことも僕が自分自身が障害者だと実感する経験が少ないことに関係しているんだと思います。
というわけで、説明が非常に長くなってしまいましたが、最近自分のアイデンティティがどこにあるのか、わからなくなってしまったのであります。笑もちろん障害があることは事実なので健常者というわけではありません。笑でも障害者なのってなると、うーん。。。と考えてしまう。
僕はどちらでもない、すごく中途半端な存在なのかななんて、考えるようになりました。笑このことで深く悩んでいるとか、自分を卑下しているとかそういうわけではありません。ただこういう気持ちを抱いている障害のある人に出会ったことがないのであんまり多くはないのかな?と思い、今回はこんな記事を書いてました。
僕は、キリスト教徒ではありませんが、自分の障害は神からの授かりものだと思っています。障害を授かったその瞬間から僕は大多数の人との「違い」を持ったことになります。差別化が重要だと騒がれ、それぞれが違いを生み出すために奮闘している競争社会において僕は努力なしにその違いを手にしているのです。こんなに素敵なことはありません。笑ただそれがちょっと、症状が微妙なラインというか、中途半端だというか。。笑 障害者と健常者を二分している社会の風潮の中で僕を困惑させています。。。
今回の記事ではそんな人もいるんダァくらいに捉えていただければと思います。僕もこれを同行したいとかそういうことではなくて、単に今の自分の気持ちを誰かに知って欲しかっただけなので^ ^
ここまで長文お読みいただき、ありがとうございました!!今後も定期的に更新していけるよう頑張ります!!
それではー!
母よ殺すなと僕
みなさんこんにちは!ゆ〜だいです!今日はブログ第9弾ということで、「母よ殺すな」という本を読んで、僕自身が思ったことについて記事を書こうと思います!内容を一つにまとめるのは難しいため、複数の記事にわたって書いていきます!本記事ではこの本の内容の要約をメインで書きます!
1これってどんな本??
最初にこの本を知った時に、タイトルが非常に強烈でした。でも内容を理解していくうちにこのタイトルの示すことを納得させられました。
この本は、1970年代の「青い芝の会」という、脳性麻痺の当事者団体による、障害当事者の権利擁護のための自立生活運動がどのような経緯で、どのような考えのもとで行われたのかについて、脳性麻痺の当事者である著者、横塚晃一さんの考え方を踏まえて書かれたものです。
2殺されて当然だったのか?
そもそも、脳性麻痺当事者が権利運動を始めたきっかけは、70年に横浜で起きた、母親による障害児殺害が背景にあります。
その母親は2人の娘がいて、どちらも脳性麻痺者でした。母親は妹を殺害。本来子どもを殺害すれば、重い刑を課されます。しかしながら、町内会や障害児を持つ親の会がその母親の減刑運動を始めます。
・かわいそうな母親を救え。
・障害者施設の不足が招いた惨劇であり、母親もまた不十分な福祉政策の被害者である。
このような意見のもとで、娘を殺した母親を擁護する動きが起きました。
この動きに対して、脳性麻痺当事者の団体である「青い芝の会」は、次のような考えのもとで、自立生活運動を始めました。
・なぜ殺した母親が擁護され、殺された子どもの権利は無視されるのか?
・障害者は殺されても仕方のない存在なのか?
この考え方を青い芝の会は主張し、都庁前での座り込み運動や母親の裁判を求めた運動などを含め自立生活運動を始めました。
3働かざる者、人にあらず
そもそもなぜ母親は脳性麻痺の娘を殺したのか?
この部分を追求することが、自立生活運動の第一歩になると著者は述べていました。
この子は治らない、治らないなら殺してあげた方がこの子のためだ。
母親が仮にこのように考えて、娘を殺害したのであれば、その背景には次のような考え方があります。
「働かざる者、人にあらず」
つまり、この子は障害があって、働くことができない、働けないなら生きていても意味がないという考え方です。
別な言い方をするならば、人間の価値は生産能力によって決まり、生産性が高い人(健常者)には価値があり、生産性の低い人(障害者)には価値がないということになります。
この生産性、効率性を重視した資本主義的、経済成長主義的な考え方が障害者をあってはならない存在にしている、これがこの本の中で最も筆者が伝えたかったメッセージであると僕は思いました。
この考え方は自立生活運動が始まってから、約40年経つ現在でも完全に人々の中から消え去ったとは決して言えません。
事実、去年起きた相模原の事件でも、容疑者がこの考え方に非常に似た発言をしていました。
現実として、生産能力で人間の価値を判断する考え方は根強く残っていると僕は思います。
そしてこれは障害者に限った話ではもちろんありません。一般的な会社でも仕事ができる人は尊敬の眼差しを受けるのに対し、仕事ができない人は上司のあたりが厳しかったり、劣等感を味わいます。そしてより仕事ができるようになること、生産能力を上げようとします。なぜなら、生産性が高い方が人間としての価値が高いという資本主義的な感が型が背景にあるから。。
しかし次のような考え方もできます。
人間の価値は資本主義の考え方で全て規定されるべきなのでしょうか?
そもそも仕事が人間の全てなの??
人類の歴史において、アダムスミスによって提唱された資本主義の考え方はわずか200年足らずの話です。そんな、言うなればぽっと出の考え方に私たち人間の価値を全て規定されるのでしょうか?
著者は、障害者は人間とは何かを改めて問う資源なのであると述べていました。まさにその通りだなと本を読んで僕も思いました。
正直なところ、僕自身現段階では、資本主義的な考え方で人間の価値を規定することが、全て正しいわけではないと表面的なことしか言えません。
じゃあどうするの?どういう考え方がいいの?その考え方を浸透させるためにはどうしたらいいの?
こういう質問をされたら、僕は返す言葉が今は見つかりません。
そもそも答えがあるのかすらわかりません。
しかしながら、人間の価値とはなにかを改めて考えることは全ての人にとって重要なトピックであると僕はこの本から学びました。
いかがだったでしょうか?本の中にある著者の考え方は僕にとっては、驚きばかりというか、新鮮というか、触れたことのないものばかりでした。
みなさんの中にも興味のある型がいれば、是非是非読んでみてくださいね!
次回の記事でも、この本に関することを書いて生きます。
長文お読みいただき、ありがとうございました!
ではまたー!
障害開示のハードルと僕
みなさんこんばんは!ゆ〜だいです!今日はブログ第8弾ということで、障害開示のハードル、つまり障害当事者が自身の障害や困難さを周囲に伝える際の障壁となりうるものに関する記事を書こうと思います!
僕は以前の記事で次のようなことを書きました。
・障害者と健常者がお互いに歩み寄り会うことが重要である
・障害者が健常者に歩み寄るために必要なことは、自分の障害や困難の開示である
・障害や困難を開示しないことは、自身の不利益に繋がりうる
以上のことは僕の考えとしては変わっていません。僕個人としてはどんどん開示していった方が後々楽かなーなんて思ったりもしています。
そんな中、最近大学で出会った発達障害のある学生が次のようなことを話していました。
空気を読めない、締め切りをよく忘れてしまうといった困難さを説明してもスルーされることが多いから、自分の障害のことを話すかどうか迷うことがある。
発達障害のある人の中には、
・課題にやる気が出ない
・締め切りや予定をよく忘れてしまう
・好きなことに没頭するあまり、やるべきことを忘れてしまう
・空気を読めない
・集団の中にいると疲れてしまう
といった困難がある人もいるようです。これはあくまで僕が発達障害のある学生数人から聞いた内容です。
このような困難を伝える時に難しいのは、
誰にでも当てはまってしまうような困難だということです。
誰にだって課題にやる気が出なかったり、予定や締め切りを守れないことがあります。
そのため言われた側としては、
・あー私にもよくあるよーそういうこと
・それって頑張りが足りないんじゃない?
などの反応が返ってくるケースもあるようです。
僕は発達障害の専門家ではありませんが、当事者の困難は私たちが「自分と同じ」と思う困難さは全く別物なのかなと、話を聞いていて思いました。
そもそも努力でどうこうならないから、「発達障害」という診断がくだるわけですしね。同じなはずはありません。
実際に僕も自分の困難さを開示した時に、
・私も老眼で小さいものが見えないのよー
・人の顔覚えるの私も苦手なの!
と言われたことがあります。
この反応を聞いて僕は率直にこう思いました。
うーん、この人俺の障害開示をスルーしてるな、あんまり聞いてないな。。てか老眼と一緒にすんなや。笑
多分こういうことが続くと、当事者は障害開示を悩むようになるのかな。。
特に外見では障害があるってわからない人、例えば精神障害、発達障害、弱視など、の人はこの問題に出くわすのかなと思います。
この問題をどうやって改善していくか、僕の考えは以前の記事で書いたとおりです。
障害者と健常者の歩み寄り合い!!
まず、障害者側は、めげずに伝えていくしかないのかなと。ちょっと大変だと感じる当事者もいるかもしれませんが。。
自分の困難さは、自分一人の努力でどうこうできるものではないことやあなたが同じと思っている困難さとは別物だということを、しっかりと当事者自身が伝わるように話していく必要があると僕は思います。
この人わかってくれないからもういいや、って伝えるのを諦めて、健常者はここがズレてると嘆くだけでは、状況は良くならないと僕は思います。
そして健常者側にできることは、開示された内容をきちんと受けとめるということです。
開示された困難さが、自分が思うものとは別物だと、認識することだと僕は思います。
これは、片方が歩み寄るだけでは不十分です。両者が上で述べたようなことを実践していけば、少しずつ状況は改善されると僕は信じています。
いかがでしたか?この問題もなかなか難しい。
皆さんもぜひ考えて見てくださいね!
長文お読みいただき、ありがとうございました!
次の記事で何を書くかはまだ決めていませんが、近日中に書ければと思っています!
ではではー(^ ^)