ゆーだいのブログ@身障者手帳保有

みなさんこんにちは!ゆ〜だいです!僕は弱視の大学4年生です!「障害」、「格差」、「マイノリティ」、「社会」など、様々なトピックについて発信していきます!!

障害、感動の対象、そして僕

みなさんこんにちは!ゆ〜だいです!今日はブログ第7弾ということで、「障害者を感動の対象としてみる風潮」というトピックについて記事を書こうと思います!

 

この記事を書こうと思ったきっかけ、

 

それは、 TED×Talksのステラヤングさんのスピーチです!

 

英語のリスニングとブログのネタ探しも兼ねて、YouTubeで見ていたらすごく印象的な内容で、自分の身の回りでも当てはまるようなこともあると僕は感じました!

 

そのどうがはこちら↓↓↓

 

youtu.be

 

彼女は、オーストラリアでコメディアン、ジャーナリストであり、障害者人権運動で非常に活躍したそうです。

 

さて、僕自身がどんな場面で、彼女のいう「障害者は感動の対象ではない」というスピーチに対して共感したかというと、、

 

最初にパッと浮かんだのは、

 

年1回ほど放送されるテレビ番組ですね。

 

障害のある子供をクローズアップし、その子が努力した結果お茶の間に大きな感動を与える。

 

誤解して欲しくないのは、僕は決して当事者の努力を否定しているのではありません。

 

僕がここで言いたいことは、なぜ障害のある子供なのか??ということです。

 

別に障害のない子供でもなにかに挑戦し、成し遂げることは非常に感動的です。

 

そこをあえて、毎年障害者をクローズアップするのには何か理由があるわけです。

 

その理由とは、「障害者の方がより感動を与えられるから」だと僕は推測しました。

 

もしこの推測が正しいならば、なぜ「障害」が感動の要因となるのだろうか。

 

彼女の話の中にもあったが、障害者に対して、無条件に、つまりとくになにもしていないのに、すごいという人は少なくないと僕は思う。

 

障害を持ってつらいだろうに、頑張って生きててすごい、ということなのだろうか。

 

まあ、真意は定かではありませんが、仮にそうだとするならば、生きてるだけですごいと思われている人が、テレビでさらに頑張ってる姿を見せたら、それはより感動を呼ぶことになりますね。

 

しかしこの考え方でいくと、果たして障害者は、対等な扱いをされていると言えるのでしょうか?

 

障害があるってだけで、ポイントプラスされてるってことですよね?

 

これをどのように捉えるかは当事者それぞれによると思います。実際に障害があって苦労している人はたくさんいると思います。その人たち自身が、実際に大変なんだから、そう評価されるのは当然だと思っているのであれば、それはそれでいいと思います。

 

僕の知り合いが以前次のようなことを話していました。

 

障害者はテレビで頑張っている姿を見せることで、他の人を勇気付けることができる、それってすばらしいことだよね!

 

確かにこういう意見もあります。このように障害者を見ている人も少なくないのではないかなと僕は思ったりもします。

 

その一方で、この考えは頑張っている障害者には価値があり、頑張っていない障害者には価値がないという考え方にもつながってしまうのではないかとも思ったりします。

 

では、対等な扱いってなんでしょうか??

 

アメリカ英語で障害者は、Person with disabilityと表現されます。ちなみにイギリス英語では、Disabled person。

 

このアメリカ英語の表現方法からは、障害者はあくまで一人の人で、そこに障害がくっついているという考え方を僕は読み取ることができました。

 

つまりすべての人が、つまり健常者も障害者も障害者をまずは一人の人として認識することが第一歩なんじゃないかなと僕は思います。

 

文字で見るとすんごく当たり前のことですが、本来付随しているだけの障害ばかりを見てしまう人は少なくないのではないかなと思っています。

 

じゃあそうするためにはどうしたらいいのか、具体的な方法はまだ僕にはわかりません。

僕にできることをやっていけたらと思っています!

 

いかがだったでしょうか?今回の内容は僕にとってちょっと難しかった。。

自分の考えもいまいちまとまりきれてないし。。

 

皆さんもぜひ考えて見てください!長文お読みいただき、ありがとうございました!

次回は障害のカミングアウトに関する記事を書けたらと思っています!

ではではー

 

 

 

 

 

 

 

障害開示の重要性と僕

みなさんこんにちは!ゆ〜だいです!今日はブログ第6弾として、僕がこれまでの人生で最も障害開示の重要性を学んだ経験について、記事を書こうと思います!

 

僕は自分の障害を周囲に開示しなかったことにより、非常に後悔した経験があります。自分の障害、そして具体的に自分には何が難しいのか、どういう配慮が必要なのかを伝えないことが、自分をどれだけ不利にするのかを痛感させられました。

 

その経験とは、ズバリ・・・

 

部活動!!!

 

僕は高専生時代、バスケ部に所属していました!
当時の僕は部活のために学校に行っているようなものでした笑
別に所属していたバスケ部がすごい強豪だったというわけではありません。しかし当時の僕にとって部活動は学生生活の全てと言っても全く過言ではありません。
部活動中の練習も、時間外の練習も当時の自分としては熱心に取り組んでいたと思っています。
それは、自分には備わっている運動能力や目のことも含め、他の人よりもたくさん練習をしなければという思いがあったからです。

 

そして最後の大会、僕たちのチームは高専大会という、高専同士で競う大会で全国大会に出場することを目標としていましたが、結果としてその目標には届きませんでした。

 

その後部活動を引退して、僕はすごく考えました。

なんで全国大会へいけなかったんだろうか??

毎日毎日、考えました。
僕は当時キャプテンで、練習メニューも僕が決めていたこともあり、
「◯◯な練習をもっとすべきだった」、
「チームメンバーのモチベーションを上げる努力をすればよかった」、
「もっと練習すればよかった」
などなど
いろんなことを悔いていました。

 

しかしそのときふと次のようなことを思いました。

「僕自身が自分の障害のことをもっとチームメンバーに共有し、補って貰えば僕自身がもっと自分の練習の成果を発揮できたのではないか」

 

僕はチームのメンバーに自分の障害について自分から話したことは一度もありませんでした。見た目では僕は障害があるようには全く見えないこともあり、チームメイトは僕の障害のことを知ってたのかな??なんかそうらしいよくらいの認識だったんじゃないかな??

 

バスケをする際、僕の障害や見え方によって困ることがいくつかありました。

 

例えば、、

・距離感がつかめない

・飛んでくるボールが見づらい

・自分がマークする選手の背番号が見づらい

 

しかし僕が最もいま振り返って大変だったことは、体育館の壁の色とボールの色のコントラストによる見えづらさです。

 

f:id:e16b915a:20171209230523j:image

写真のように、背景の色(白)とボールの色(赤)の差がはっきりしているときはボールがすごく見やすいです。

実際に毎日練習していた光線の体育館の壁の色は白、床の色は薄い茶色だったので、比較的ボールが見やすい環境でした。

 

しかし、当たり前のことですが、練習している体育館と大会が行われる体育館はほとんどが別です。

 

f:id:e16b915a:20171209230755j:image

 写真のように、背景色が茶色の場合、ボールは僕にとってすごく見づらい。

実際に多くの体育館の壁が濃い茶色です。

この場合、仲間からのパスが普段に増して見づらい、てかボールを飛んでくるのが怖いとさえ感じます。

 

当日大会の体育館の壁の色は濃い茶色で、正直ボール全然見えませんでした。

練習でも自主練でも、シュート練たくさんしたけど、その成果は大会では全くといいほど発揮することはできませんでした。

 

もちろんそれは僕の実力不足も多少はあると思います。でも多分それ以前の問題でした。

どんなにシュート練習をしてスキルを磨いても、ボールをキャッチすることができなければ意味がありません。

 

僕はバウンドパス(1バウンドさせるパス)だったら、壁の色に関係なく取りやすいということを当時から自覚していました。おそらくバウンドの音で反応できるからかな??

 

でもそのことは誰にも話していませんでした。たぶんちょっとしたプライド?みたいなものがあったんだろうな。。

 

もし、僕が自分の障害や見えづらさをチームメイトに話し、パスを全てバウンドパスにして欲しいと求めていたら、僕は大会で練習の成果を発揮できたのかもしれない、数多くこなした練習も身を結んだのかもしれないと思うようになりました。

 

そしたら、自分の障害や困難を開示しないことは、自分を不利にすることなんだと僕は強く学びました。

 

僕に限らず、また障害の有無にかかわらず、この話からは重要なポイントが見て取れるのではないかと僕は思っています。

 

それは、

 

「弱みをみせる重要性」

 

ということ!!

 

誰にでも苦手なこと、できないことがあります。それを他人に見せることはすごく勇気がいることです。不安、恐怖、プライド、いろんな理由で弱みを見せることをためらってしまう。

 

そもそもできないこと、苦手なことは誰しもが持つことです。それはもちろん障害の有無にかかわらず。

多くの人がその事実は知っているけれど、それを「見せる」となると、なかなか実行できないんじゃないかな?

 

しかしそのためらいが、僕のケースのように大きな公開につながることもある。

皆さんも一度、自分の弱さを見せることについて考えて見てください!(^ ^)

 

以上が僕の経験と、そこから学んだこと、メッセージできることでした!

長文最後までお読みいただき、ありがとうございました!

次の記事で何書くか、現段階ではまだ決まっておりません。笑

しかし、近日中に何かしらのトピックで記事を書こうと思います!

 

ではではー!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

障害者の健常者への歩み寄りと僕

みなさんこんにちは!ゆ〜だいです!今日はブログ第5弾ということで、「健常者と障害者の関わり方」について、私が最近思うことを書こうと思います!(^ ^)

 

1健常者が障害者に歩み寄るという考え方

f:id:e16b915a:20171207213156j:image

右は、車椅子に乗っている人を書いて見ました。。

絵が非常に下手なのはご了承ください。笑

 

みなさんも一度は道徳の授業などで聞いたことがあると思います。「障害者には大変さや困難さがあるので、理解してあげましょう。助けてあげましょう。」

 

あるテレビ番組でも、「健常者は障害者理解においてここがズレてる!」というように、健常者が障害者に歩み寄るというスタンスを取っている。

 

これがおそらく「障害者がより生きやすい社会」を目指すために必要なことだと、一般的に考えられていることなのかなと僕は思う。

 

しかしこれは果たして100%あっているのかな??

 

別な言い方をするならば、、

 

障害者が生きづらさを感じる社会の原因は、健常者の歩み寄りの欠如によるものなのだろうか??

 

一部ではもしかしたらこれは正しいのかもしれない。

 

しかし、原因はこれだけではないのではないかと僕は思う。

 

なぜなら、障害者自身が、自分の困難や必要とする配慮をつたえなければ、真の意味で健常者の障害者理解は進まないからである。

 

「真の意味で」といったのは、道徳の教科書やテレビなどで見る障害者は、あくまで一つの事例にすぎないからです。どんなことが大変なのか、どんな配慮が必要なのかを見たから、聞いたからと言ってそれがすべての障害者に当てはまるわけではありません。

 

僕も視覚障害弱視ですが、弱視の人の見え方は100人いれば100通りです。他の弱視の人の見え方は聞かなきゃわかりません。笑

 

つまり、教科書やテレビによってもたらされるものは、「障害者の理解」ではなく、「障害者の一事例の理解」なのです。

 

また障害者が健常者の歩み寄りを待っているだけでは問題があると僕は思います。それは、健常者と障害者の間で、「支えてあげる側」と「支えてもらう側」という構図が生まれてしまうということです。

 

健常者だけが理解してあげよう、歩み寄ろう、とすることは、その考え自体、障害者への特別扱いや偏見、さらには差別にも繋がってしまうのではないかと僕は思います。

 

2健常者と障害者がお互いに歩み寄り合う

f:id:e16b915a:20171207213407j:image

 ではどうしたらいいんでしょうか?

 

僕は最近次のようなことを強く思います。それは、

 

重要なことは、健常者と障害者がお互いに歩み寄り合うこと

 

つまり、健常者が障害者に歩み寄り、同時に障害者が健常者に歩み寄るということです。

 

障害者が健常者に歩み寄るっていう考え方は、あんまり僕は聞いたことがありませんが、これは非常に重要であると僕は強く思っています。

 

具体的には、双方が次のようなことをする必要があるんじゃないかなと僕は考えています。

 

<健常者>

まず、健常者が障害者に歩み寄るためには、何が大変なのか、どんな助けが必要なのかを直接聞くということです。

「聞いてはいけないんじゃないか」と考える人も少なくないように僕は思います。しかし聞かないで、自分が思う手助けをすることは、かえって障害者を木津つけたり、迷惑だたりすることもあります。

 

例えば、白杖を持って歩いている人がいるとします。その人に対して、「 目的地はどこですか?そちらまで連れて行きますよ。」と、健常者が障害者を連れて行くとします。

 

その行為は、健常者の善意に他なりません。とても素晴らしい心の持ち主だと思います。

 

しかし一方で、白杖の持ち主が、目的地までの景色を一人で楽しみたいと思っていたり、そもそも歩行の助けなしに歩けるとしたら、その善意は迷惑になってしまうこともあります。

 

あ、白状は全盲の人のためだけではないんです。僕のような弱視でも持ったほうがいいとされています。僕も東京に行くときとかは、自分に視覚障害があることを可視化するために持ったりします。

こういうことも教科書やテレビだけではわかんないですよね。だからこそ、聞いた方が早いんです!(^ ^)

 

つまり、健常者がまずすべきことは、やってあげることではなく、尋ねることなんです。尋ねた後で、手助けをするのか、しないのかを障害者に委ねるべきだと僕は思います。

 

<障害者>

次に、障害者が健常者に歩み寄るために必要なことは、自分の困難や必要な配慮を自分の口から具体的に伝えるということです。

ざっくりとした説明では不十分な時が良くあります。

例えば、僕が、「視覚障害があって、弱視なんだ」とつたえても、他の人からしたら、????って感じじゃないですか?

何が難しくて、どんな配慮が必要なのかなんて、僕が話さなければわかりっこないですよね。

 

僕も昔は周りの人に対して、察してくれよーって思っていたことが良くありました。しかしそんなわがままな、って今は思います。笑

 

だって、言われなきゃ他の人わかるわけないもん笑笑

 

だから「言わなくてもわかってよ」といった、日本人的発想ではなく、より具体的に自分の口で伝えることが、健常者にとって、そして何より自分にとって、良い環境を作れると僕は思います。

 

また、パッと見て、障害があるってわからない人、例えば僕のような弱視聴覚障害発達障害など、の人は障害を可視化する方法も一つの手段だと僕は思います。

 

僕の場合、白杖を持つことで、周囲に一発で、こいつは目が悪いんだな、と示すことができます。たまに親切すぎる人が、電車で席を譲ってくれることもあります。笑めちゃめちゃ僕にとってはただのラッキーなんですが、笑なぜなら、僕の弱視と立つことによる疲れは全く無関係なので。

 

このケースも、「視覚障害のこと私よくわかんなけど、立ってるの辛かったら譲りますよ。」といってもらった方が、お互いのとっていいんじゃないかな??

 

以上が僕が思う、健常者と障害者の関わり方です。皆さんはこれを読んでどう思ったでしょうか?よろしければコメント等で意見を聞かせてください!(^ ^)

 

ここまで長文をお読みいただき、ありがとうございました。

次の記事では、僕の人生の中で最も「障害」について考えさせられた経験について書こうと思います。今後ともよろしくお願いいたします!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弱視と僕 Ⅱ

みなさんこんにちは!ゆ〜だいです!

今日は記事第4弾ということで、僕が弱視によって実際何が見づらいのか、どんな時に困るのかについて書きたいと思います!

 

前回の記事で書きましたが、僕は網膜色素変性症という視覚障害で、弱視です。

視力は 現在、左が0.2、右が0.02です。主に左目でものを見ています!矯正はできません。

視野の中にドーナツ型の輪状暗点という見えない部分があります。従ってドーナツの中心部分、とドーナツの外側でものを見ています。文字などはっきり見なきゃいけないものは中心部分で見ています!

 

さて、言葉で僕の見え方について書きましたが、それで??なにができて、なにができないの??って感じですよね??笑

 

以下に僕ができないことや大変なことについて紹介します!

 

1小さい字やものを見る時

f:id:e16b915a:20171206135224j:image

まず、「目が悪い」と聞くと、一般的に想像される ことなのかな??

細かい字や遠くにあるものを見るのが難しいです。視力が低いということに加え、僕には視野のこともあるので、余計に大変です。笑

中心視野(ドーナツの穴が空いた部分)でものを見るので、遠くのものを探す時に苦労します。\」

 

例えば、歩行者用の信号!!

 

目の前にあるはずなのに、どこにあるのか見つけられない。。一人で信号を渡るときは、車の流れとかを見てなんとか判断することもあります。笑

 

あと、時刻表みたいな細かいのもちょっと。。どこに何が書いてあるのか、一度に全部を見ることができないので、1マス1マス自分の見たい部分を探しています。

まあ、最近はスマホなのでそこまで困らなくなりました!便利な世の中になった(^ ^)

 

2長い文章を読むこと

f:id:e16b915a:20171206135506j:image

勉強の時に一番困るのはこれですね〜〜

ドーナツの中心でしか、はっきりと字を認識できないので、一階に目に入る文字数が1か2文字程度なのです。そのため文字数の多い文章を読むのは、結構時間かかります。開業の時は、次の行がどこにあるのか、わからなくなることもあります。

他の人が音読する文章を目で追うのもギリギリって感じです(^ ^)

 

以前読み速度の検査をした結果、僕の読み速度(黙読では大体小学5年生の平均と同じ速さでした

 

大学に入る前までは、気合いで教科書とか黒板の文字とか読んでいましたが、もう頑張りたくありません。笑 

 

スマホで文章を読むときは音声読み上げ機能を活用しています。

また大学の資料は、先生にデータをもらって、PC や iPad の読み上げ機能を活用して読んでいます!

結構早い速度で聞くので、よく驚かれます。。笑

 

3人の顔を覚えられない

f:id:e16b915a:20171206135608j:image

これはこれまで周りの人にあまり話してはいませんでしたが、僕は人の顔を覚えられません。視力が低いから、顔を見ることができず、覚えられないというわけではありません。

詳しいことはわからないのですが、おそらくはっきりとものを見ることができる範囲が狭い(文字1、2文字分)ため、一度に顔の全体を見ることができず、記憶に影響があるのかなと思っています。

 

だから人の顔は何と無くで覚えています。髪型とか、声とか、身につけているカバンとか靴とか、。。

 

テレビに出てくる女優とかアイドルとか、みんな髪型おんなじなので、誰が誰だか全くわかりません。笑

これはおじさんになると良くある現象らしいのですが、僕は年のせいではありません。笑 

 

中学高校の時は、みんな同じ制服を着ていたので、多分大変だったのかな??髪型とか声でなんとかやってたんだと思います。あんまり覚えてないけど笑

 

顔を認識して、音声で伝えてくれるサングラスみたいなのが開発されればいいなぁ(^ ^)

 

もし僕に話しかける際は、最初に名前を言っていただければ、顔ば覚えられなくても困らないので助かります(^ ^)

 

以上が僕の見づらさや困難についてです!

弱視の人の見えづらさは100人いれば100通りあります。あくまで一つの事例として、こういう人もいるのかーと心に止めていただければ幸いです(^ ^)

 

次回は、「障害者と健常者の関係」について、自分なりの意見を記事にしたいと思います!

長文お読みいただき、ありがとうございましたー!

 

弱視と僕

みなさんこんにちは!ゆ〜だいです!今日はブログ第3段として、僕の「見え方」に関する記事を書こうと思います!

 

1弱視とは?

f:id:e16b915a:20171202234033j:image

そもそも弱視ってなに?というところから話を始めますね!

 

視覚障害と聞くと、全く目が見えない人、つまり視力が0.00 の人を想像する方もいるかもしれません。この全く目が見えない状態を「全盲」といいます。

 

全盲で有名な人は、

・ヘレンケラー(社会福祉活動家)

辻井伸行(ピアニスト)

 

漫画のキャラクターでいうと、

・大将藤虎( ONE PIECE

 ・東仙要( BLEACH

 ・ンドゥール(ジョジョ第3部)

などが挙げられます!(ピンとこなかったらごめんなさい。。

 

しかし僕の場合は全く目が見えないわけではありません。僕のように全盲ではないけれど、病気等によって見えづらさがあることを「弱視」と呼びます。(医療的な定義は難しいため、非常に大雑把な説明となっております。)

 

平成18年の厚生労働省の調査によると、視覚障害として身体障害者手帳を取得している人のうち、全盲の人は約2割なんだそうです。

視覚障害の中でマイノリティのはずの全盲が一般的に視覚障害のイメージになっているのはなぜだろう???「全く目が見えない」、「白杖を持っている」などのインパクトが大きいからなのだろうか。。

 

2僕はどのような見え方なのか?

続いて、僕自身がどのような見え方7日について話します!

あくまでここからの内容は僕の症状について、自分で客観的に書いているだけなので、この内容から、「かわいそう。。」だとか「大変ねー」といった、哀れみの眼差しを向けるのはやめてくださいね!笑

そんな風に見えてるんだーっていう気持ちで読んでいただけると幸いです!(^ ^)

 

僕は網膜色素変性症という病気があります。医療的な定義は僕にはわからないので、ここでは割愛します。笑

 

僕はこの病気によって視力の低下と視野(見える範囲)の障害があります。

視力は現在、右が0.03、左が0.2です。このことを話すと、たまに私もメガネ外したらそのくらいよーと話してくれる方がいます。でも僕は矯正が効かないので、視力はそのままです。 そういった意味で、純粋に視力の低い人とは違うのかなと思います。

 

そして視野の障害について、、

これがちょっと言葉で説明するのが難しいのですが、

 

一般的に視野に障害のない人は、見える範囲に入っているもの全てが見えているのだと思います。(幼い頃から僕は弱視なので、実際に晴眼者(視覚障害のない人)がどのように見えているのか性格にはわかりませんが。。)

 

視野に入っているもの全てが見える、、

当たり前じゃないかって思うかもしれませんね笑

 

しかし僕の場合は違うんです。僕の視野の中には輪状暗点と言って、ドーナツ型の見えない範囲が存在します。

f:id:e16b915a:20171203004341j:image

だから、そのドーナツ型の見えない部分にかぶっているものや景色の一部は見ることができません。

逆にいうと、ドーナツの中心の部分とドーナツの外側で僕はものを見ています。

ちなみに検査によると、僕の見ることができる視野の中心の範囲は、全体の視野の約5%です。

 

見えない範囲が存在するといいましたが、何もその部分が、黒く塗りつぶされていて見えなくなっているというわけではありません。「見えない」ということと「黒い」ということは別な話です。「黒い」都認識している時点でそれは見えているんです。

なんか哲学みたいですね笑

 

みなさんも自分の後頭部は見えないと思います。なぜならそれは黒く塗りつぶされていて見えないからではなく、視界にないからですよね?

 

僕にとってドーナツ型の見えない範囲はそれとおんなじ感覚です!本来あるはずのものでも、ドーナツにかぶっていると、視界にないものになるのです。

 

僕の見え方は言葉で説明するとこんな感じです!伝わっているか少し不安ではありますが。。

もし僕がどのような見え方をしているのか、気になる方はコメント等をしていただければ、個別に対応できますので!(^ ^)

 

では!今日はここまで!長文を読んでいただき、ありがとうございました!

次は、僕の見え方によってどのような困難があるかについての記事を書こうと思います!

ではでは!

 

 

 

 

 

 

ブログと僕

みなさんこんにちは!ゆ〜だいです!今日は第2段の記事として僕が風呂区を始めたきっかけと、どのようにブログを今後活用して行くのかについて書いていきます!(^ ^)

 

1ブログを始めたきっかけ

f:id:e16b915a:20171202000750j:image

そもそも前々から(多分今年の7月くらいから)ブログをやりたいなーって思ってはいたんです!始めるのに5ヶ月もかかってしまいましたが。。笑

当時やりたいと思っていた理由は

・大学生のうちに始めたほうがいいと、ほかのブログで見たから

・情報発信力は将来的に役に立つから

みたいなものでした。

 

でも今回ようやく始められた直接的なきっかけは、次のようなことがふと頭によぎったからです。

 

それは、、

 

このままもし自分が死んだら、僕がいま考えていること、感じていることは誰にも知られることなく、消えて行くんだ。。

 

このことを思ったとき、なんだかすごく悲しいというか、怖いというか、言葉でいいがたいきもちになったのです。多分僕は、自分の思っていることを伝えたい、自分の存在をなんらかの形で残したいっていう欲求が強いのかなと思います!(^ ^)

 

まあ簡単にいうと、目立ちたがりやなのかな??笑

 

これが僕がブログを始めようと思った直接的なきっかけです!!(^ ^)

 

2ブログをどのように活用していくか

f:id:e16b915a:20171202001813j:image

次に、ブログを今後どのように活用していくかについて、

上でも述べましたが、このブログでは僕が考えていること、感じていることを発信していく予定です。トピックは様々ですが、最初の方は主に「障害」に関連することを書いていけたらと思っています!

 

しかし、それだけではありません。僕はこのブログを通して、 次のことをしたいんです!それは、

 

社会をより良くするための1ピースになること!!

 

僕は、今の社会では「自分とは違うから」という理由で排除されている人々がいると考えています。国籍、人種、宗教、障害、 LGBT 、、、一障害当事者である僕自身が発信することは、「違う」と認識されている障害者の位置事例を示すことができるということで、意味のあることなのかなと思っています!!

 

そして僕は人生をかけて成し遂げたいことが一つあります。

 

全ての人が違いを理解し合える社会を実現すること!!

 

このブログは、そのための第一歩!!

発信を続けていく中で、同じようなビジョンを持っている仲間にも出会えたらいいなぁ(^ ^)

 

最後になりますが、一つ気をつけていただきたいことがあります。このブログで発信することはあくまで僕個人の意見です。当たり前のことですが、障害のある人にもそれぞれの考え方があります。僕のブログだけを見て、障害者をあたかも一つの括りとして考え、「あ、障害者ってこういう風に考えてるんだー」と誤解しないでいただくよう、お願いいたします。

 

では!今日はここまで!長文お読みいただき、ありがとうございました!

次は、視覚障害と僕の見え方についての記事を書きます!よろしくお願いいたします!

 

 

 

みなさんはじめまして!新潟大学4年のゆ〜だいです!^ ^この度私ブログを始めましたーー!

なぜ私はブログを始めたか、、それは、、社会をよりよくするための1ピースになりたいからです!!

すごく抽象的ですみません!このことは次の記事でより詳しく話すつもりです!

最初の記事ということで、今回は私の自己紹介について書こうと思います!!

 

私の障害

00_PP53_PP_TP_V.jpg

私は1歳の頃から網膜色素変性症という視覚障害があります。「視覚障害」と聞くと全く目が見えない、視力0.00の「全盲」を想像する方もいらっしゃると思います。しかし私は全くものが見えないわけではありません。私のように全く見えないわけではないけど、見ることに困難がある視覚障害を「弱視」と呼びます。視覚障害や私の症状についてはまた別な記事で詳しく話そうと思います!!^ ^

 

大学生生活

私は現在新潟大学経済学部の4年生です。4年生のこのじきだと多くの大学生が卒業論文が大変だと嘆いていることでしょう。しかし私の学部では卒業論文を書くかどうか学生が選ぶことができます。無論私は書かずに卒業するつもりです!笑

卒業のための単位は概ね撮り終わっているため私は現在、「卒業までに今自分ができること」に取り組んでいます!それは主に以下の3つのことです!

 

1障害のある学生を対象とした会の企画

N879_paipuisutotukue_TP_V.jpg

大学には障害学生支援室が設けられています。そこでは障害や学びの困難のある学生が様々なサポートを受けています。利用する学生を対象に、「障害ってなに?」、「自分の困難さってなに?」、「自分にとって必要な配慮はなんだろう?」などを考え、他者に伝えるきっかけとなる会を定期的に開いています。障害当事者自身が自分にとっての困難を認識し、どのようなサポートを必要とするかを伝えることが非常に大事だと私は考えているので、そのようなことを体験できる会を企画しています。

 

2盲学校への出張プチ授業

iPadIMGL1159_TP_V.jpg

今年の7月に新潟盲学校の高等部の進路の授業で「視覚障害のある先輩の事例」として講演をする機会をいただきました。それから盲学校との繋がりができ、盲学校の生徒を対象に、iPadなどのテクノロジーの活用に関するプチ授業を企画しています。

 

3読書

171030ell_DSC1941_TP_V.jpg

私はこれまで全くと言っていいほど、読書が嫌いでした!笑 

しかしここ最近になって、次のようなことに気づきました。

 

自分は常識に欠けている。。。それに多角的な視点が必要だと自分で思いながら、その視点を得るためのことをしていない!!

 

これではまずいと読書を始めました。そしたらなんと、、読書が楽しくてしょうがない!!笑 

定期的に読書をして、少しずつ勉強しています!

 

進路

XEM626003_TP_V.jpg

4年生であると伝えるとよく、「就職は?」と聞かれます。その時僕は’「卒業後の進路路は決まっています!」と答えます。なぜなら私は就職も進学もしないからです。私はある財団法人の主催する、障害者を対象とした海外研修事業のスカラーに選んでいただいたため、卒業後1年間アメリカで研修をすることになっています!研修費や生活費の援助が出る上、研修内容や研修地を全て自分で決めることができるという素晴らしいプログラムです!現在は研修受け入れ先を探しているところです!今年中に確定させる予定です!

 

いやー!障害があってよかったーーー!!!※これはあくまで一個人の意見です。

 

 

以上がざっくりとした私の自己紹介です!次の記事ではなぜ私がブログを始めたのか、ブログをどのように活用するかについての記事を書こうと思います!

 

ここまで長文を読んでいただき、ありがとうございました!これからどうぞ、よろしくおねがいいたします!^ ^