障害、感動の対象、そして僕
みなさんこんにちは!ゆ〜だいです!今日はブログ第7弾ということで、「障害者を感動の対象としてみる風潮」というトピックについて記事を書こうと思います!
この記事を書こうと思ったきっかけ、
それは、 TED×Talksのステラヤングさんのスピーチです!
英語のリスニングとブログのネタ探しも兼ねて、YouTubeで見ていたらすごく印象的な内容で、自分の身の回りでも当てはまるようなこともあると僕は感じました!
そのどうがはこちら↓↓↓
彼女は、オーストラリアでコメディアン、ジャーナリストであり、障害者人権運動で非常に活躍したそうです。
さて、僕自身がどんな場面で、彼女のいう「障害者は感動の対象ではない」というスピーチに対して共感したかというと、、
最初にパッと浮かんだのは、
年1回ほど放送されるテレビ番組ですね。
障害のある子供をクローズアップし、その子が努力した結果お茶の間に大きな感動を与える。
誤解して欲しくないのは、僕は決して当事者の努力を否定しているのではありません。
僕がここで言いたいことは、なぜ障害のある子供なのか??ということです。
別に障害のない子供でもなにかに挑戦し、成し遂げることは非常に感動的です。
そこをあえて、毎年障害者をクローズアップするのには何か理由があるわけです。
その理由とは、「障害者の方がより感動を与えられるから」だと僕は推測しました。
もしこの推測が正しいならば、なぜ「障害」が感動の要因となるのだろうか。
彼女の話の中にもあったが、障害者に対して、無条件に、つまりとくになにもしていないのに、すごいという人は少なくないと僕は思う。
障害を持ってつらいだろうに、頑張って生きててすごい、ということなのだろうか。
まあ、真意は定かではありませんが、仮にそうだとするならば、生きてるだけですごいと思われている人が、テレビでさらに頑張ってる姿を見せたら、それはより感動を呼ぶことになりますね。
しかしこの考え方でいくと、果たして障害者は、対等な扱いをされていると言えるのでしょうか?
障害があるってだけで、ポイントプラスされてるってことですよね?
これをどのように捉えるかは当事者それぞれによると思います。実際に障害があって苦労している人はたくさんいると思います。その人たち自身が、実際に大変なんだから、そう評価されるのは当然だと思っているのであれば、それはそれでいいと思います。
僕の知り合いが以前次のようなことを話していました。
障害者はテレビで頑張っている姿を見せることで、他の人を勇気付けることができる、それってすばらしいことだよね!
確かにこういう意見もあります。このように障害者を見ている人も少なくないのではないかなと僕は思ったりもします。
その一方で、この考えは頑張っている障害者には価値があり、頑張っていない障害者には価値がないという考え方にもつながってしまうのではないかとも思ったりします。
では、対等な扱いってなんでしょうか??
アメリカ英語で障害者は、Person with disabilityと表現されます。ちなみにイギリス英語では、Disabled person。
このアメリカ英語の表現方法からは、障害者はあくまで一人の人で、そこに障害がくっついているという考え方を僕は読み取ることができました。
つまりすべての人が、つまり健常者も障害者も障害者をまずは一人の人として認識することが第一歩なんじゃないかなと僕は思います。
文字で見るとすんごく当たり前のことですが、本来付随しているだけの障害ばかりを見てしまう人は少なくないのではないかなと思っています。
じゃあそうするためにはどうしたらいいのか、具体的な方法はまだ僕にはわかりません。
今僕にできることをやっていけたらと思っています!
いかがだったでしょうか?今回の内容は僕にとってちょっと難しかった。。
自分の考えもいまいちまとまりきれてないし。。
皆さんもぜひ考えて見てください!長文お読みいただき、ありがとうございました!
次回は障害のカミングアウトに関する記事を書けたらと思っています!
ではではー